浜揚げの頃、琴の海にて
The harvest season of Acoya in the Koto Sea
12 月、浜揚げの始まりの季節です。あこや真珠を母貝から取り出す収穫を”浜揚げ”と呼びます。冬、寒さの厳しい中での仕事。琴の海と呼ばれる大村湾でお父様の代から養殖真珠をされている、松田真珠さんを訪ねました。
琴の海で珠入れをしたのち、九十九島で珠の入った母貝を育てます。12月浜揚げの時期になるとあこや貝を九十九島から東彼杵の江の串まで運びます。早朝に毎朝その日に珠を取り出す分のみ運びます。その距離55Kmほど。時間にすれば1時間15分ほどかかります。まとめて運ばないのですか?とお聞きしたら、置いておいたら珠が少しくもるそう。見えないところで美しい珠を取り出すための小さな沢山の工夫があります。また海が美しくないとあこや貝には汚れが沢山付いていてそれを落とすだけでも大変です。色んなものがついてお化けみたいになっている時もあります。
江の串にある松田さんの真珠小屋目の前の琴の海。ここから見える対岸へと毎日車を走らせあこや貝を取りに行きここまで運びます。海の方が早いのでは?とお聞きしたところ、船のガソリンも値上がりし大変だそう。
青い足糸(そくし)。私はこの美しい青に惹かれます。なぜ、空、海と同じこんなに美しい鮮かな青なのか?? かつてこの足糸で岩に天然のあこや貝はついていました。養殖場の籠の中で貝どうしが一緒にこの足糸でくっついています。
あこや貝からあこやの身丸ごと取り出します。作業の途中、真珠の身体の仕組みを見せていただき、あこや真珠を取り出して頂きました。子宮の中で育つ真珠。美しい真珠が現れました。
あこや貝の貝柱。琴の海の冬の風物詩。この時期だけ市場で見かけることができます。そのままここで食べましたが、美味しいです。浜揚げの作業は寒い中、黙々と進みます。まず貝の身丸ごと取り出します。その数1日1500個ほど。二人で行う作業には限界があります。しかし、そのうち花珠と言われるいわゆる完璧な真珠は5%あるかどうか。あこや貝は海から引き揚げられた時すでに育てていた半分は死んでしまっていると言われます。
この二つは異常のあるあこや貝。上: 黒いところは虫のため。あこや貝が戦った痕。ここに力を使うため、真珠は真珠層を作ることができない。さらにひどいときは死んでしまいます。下は原因のわからない病気。すだったようになっています。海が汚れていたり、海温度の上昇、近年問題は後を絶たない。解決の研究は追いつかない状況だそうです。
長崎ケーブルメディアさんが琴の海を中心にしたあこや貝の養殖に携わっている方々、さらに琴の海を約1年間追いながら番組を作ってくださいます。弟さんは黙々とひたすら貝を剥く作業、いつも寡黙な方です。
貝を剥き取り出した身をミキサーのようなものにかけて、真珠と身と分けます。この時にケシパールと呼ばれる、核を巻いてできる真珠の他に稀に身体に入った異物から生まれる天然の小さな小さな真珠も取り出します。
軽く水洗いした真珠を真珠と呼べるものとそうでない、泥珠や、全く巻かなかったものなどと松田さんが一つ一つ見ながら分けます。茶色が残っているのは細胞の痕で、核と一緒に入れた細胞が残ったもの。一生懸命、綺麗な真珠を作るためにあこや貝と細胞が頑張った痕です。真珠も人間と同じで、同じものは二つとありません。それぞれがそれぞれの色、表情を持ちます。いろんな形の突起が付いたものもあります。真珠と言えないものは、真珠層が核を巻いていないものです。それは真珠層が出来ていないので真珠とは呼べないもの。
これらがはじかれた珠。
ダメな珠を取り出し、真珠洗い専用の桶に塩を入れまわして洗い、さらに今度は洗剤のようなもので洗います。桶の形は8角になっています。
そして水で洗い、浜揚げの作業が完了。とれたての真珠は様々な色や形で瑞々しく輝いています。海が育む命。優しさやどこか儚さも感じられ、赤ちゃんのように可愛らしくもあり、優しい気持ちになる真珠。鉱物との大きな違いは、命を犠牲にしているという物語を背負っているからでしょうか?
一服中の松田さんに海のお話をしばしばお聞きします。松田さんの足もとの海の中。このように岩についた海藻が白くなっているのはこの場所にきて数十年になるのに初めてのことだそう・・・海藻が死んでいるのです。松田さんの真珠小屋は江の串と呼ばれるペニンシュラで山を通ってきた川が海と出会う河口近くです。通常、山の木々たちの養分が海に注ぎ植物プランクトンや様々な海のための栄養がたくさん集まるところですが、山を崩し道ができ、新幹線が通り、森、木がなくなり、十分な栄養が海に流れてきません。また海の汚染もあり、子供達、大人が海から離れていき、海が遠い存在になっています。生命を育む海、美しい真珠は豊かで美しい海からしか生まれません。
真珠があこや貝にくっついたままになったもの。これは養殖真珠でいえば失敗。だけれどここにはあこや貝とともにある真珠が何か物語を伝えてきている気がして私にはなりません。
あこや真珠は人類が初めて見つけた奇跡の美しい存在だと思います。そしてそれは人と変わりなく海から生まれ、命あるものでした。きっと初めてこれを見た人はそこに驚きと自然への感謝、畏怖の念、そして自分もこんな風に美しくなりたい、もしかしたら食べると美しくなるのか?など考えたに違いありません。そしてこの美しい珠を届けてくれた海への感謝、自然への感謝があったに違いないのです。養殖真珠がはじまり、丸い完璧な白い珠を求めるよになった歴史はまだ120年しか経っていません。しかし、このくらいから人間は物質文明の虜となります。同時に便利になればなるほど自然から遠のいて行く。今その結果がもたらしたものは、この地球を、私たちを幸せにしてるものでしょうか?
私たちは幸か、不幸か、想像し創造することを与えられた動物です。だとしたら少しでもこの想像する力をこの地球に住む全ての存在が美しく健やかに生きることのできる世界を創造することに使いたい。
次の100年のあこや真珠は、美しい海の個性を生かし個性的な作り手のそれぞれの良さを発揮したものであることが大事ではないかと思います。自然と人とが最高のコンビネーションを生み出さなくてはならない時代だと思います。私にはあこや真珠はメタファーです。命、海、自然、愛情、母性、神話・・・これらを象徴しているものだと思います。
”真珠、その命を落としその美を生む”
最後に、松田真珠の松田さんにはいつも本当にお世話になっています、ありがとうございます。長崎ケーブルメディアさんどんな番組ができるか乞うご期待、こちらもいつもありがとうございます。
今年最後、琴の海の美しい夕日。松原にて。
ChiChi